優勝の瞬間、エースの中西聖輝が力強くグラブを叩いて、吠えた。
智弁学園との「智弁対決」を制し、21年ぶり3回目の夏制覇を遂げた智弁和歌山の歓喜は、これがマックスだった。他の選手たちはそれぞれ、拳を握る程度の最低限の喜びを表現しながら、試合後の挨拶をするため静かにホームベースで整列する。
マウンドでナンバー1ポーズを掲げながらもみくちゃになることも、監督を胴上げすることもない、静かな光景。
感情を爆発させなかった真意は、直後の優勝インタビューで主将の宮坂厚希の口から日本中に届けられた。
「相手チームがいますし、『礼に始まり、礼に終わる』ということで、礼が終わってから全員で喜ぼうと決めていました」
それは、選手たちが決めたことだと、監督の中谷仁が目を細める。
「こういう状況なので、キャプテンの宮坂に『どうするか、一度考えてみて』と話して、子供たちであの答えを出してくれました。僕もそうでしたけど、優勝してマウンドにみんなで集まるのは憧れというか、夢ですから。そこで我慢できた彼らを尊敬します」
コロナ禍での甲子園。無観客という静寂の空間だったこともまた、彼らの紳士的な振る舞いを厳かにしていた。
「すべてにおいてしんどい…」中谷がスマホを見ない理由
今から24年前の1997年。智弁和歌山の主将、捕手として全国制覇を経験した中谷は、この時まだ生まれていなかった今年の3年生に、運命めいた何かを感じ取っていた。
「ちょうどふた回り違いなんです。僕も3年生と同じ未年で。縁を感じます」
中谷は元プロ野球選手である。
高卒ドラフト1位で阪神に入団してから楽天、巨人と渡り歩き15年。2012年に現役を引退し、学生野球資格を回復したのが14年。母校にコーチとして戻ってきたのは17年の春だった。そして18年8月、甲子園通算勝利数で歴代1位の68勝を誇る名将・高嶋仁から、後任を託された。
「智弁和歌山、甲子園、高嶋先生に育てられた」と言い切る中谷ではあるが、監督を継承することへの喜びとイコールかというと違う。
それどころか、悩んだ。
日本一の宿命を背負う高嶋の後ろ姿を、選手、コーチとして間近で見てきたからこそ、「智弁和歌山の監督」の重さを痛感する。
「智弁和歌山に来てくれた選手のために、休みや自分の時間を削らなくてはならなくなるわけですから、引き受けるまでには葛藤はありました」
中谷に監督就任を決断させたもの。それは覚悟だ。
主将として甲子園優勝を経験した、元プロ野球選手。高校野球界においては十分すぎる金看板である。中谷仁がどういう指導者であるかという前に、必ずそれらが枕詞のようについて回り、彼の本質を遠ざける。
中谷が口元を歪ませるように、名門校の監督であるが故の苦悩を話す。
「全てにおいてしんどい。何をやっても結果が出ないと叩かれる、打てないと叩かれる。『面白くない』と前監督やOBの方に言われたこともありましたから。『名門校の出身』とか『元プロ野球選手』とか打ち出そうとしているわけではないですし、僕は批判しかされないことは覚悟の上ですから」
とはいえ、周囲の声を簡単に遮断できるような人間は、それほど多くない。
だから……と、中谷は接続詞を置き、呟く。
「なるべくスマホは見ないようにしてます」
《甲子園V》智弁和歌山の“元プロ”監督・中谷仁42歳は何がスゴいのか? 飾らない“兄貴分”で一蓮托生「批判は覚悟の上です」(田口元義) - Number Web - ナンバー
Read More
No comments:
Post a Comment